
プログラマとして社会に出てから、もう20年になる。ふと気づけば、ここ1年ほど、技術書を開いて勉強をすることがほとんどなくなった。
技術が嫌いになったのか? 勉強が苦痛になったのか? そうではない。
勉強するコスパが、ひどく悪くなったからだ。
たいていのことはAIが知っている。知っているだけでなく、エージェントを使えば作業そのものまで代わりにやってくれる。
しかも、それらのAIは数か月単位でモデルが変わり、あらゆる分野でさらに賢くなっていく。その賢さの上昇は、自分が学習する速度よりよほど速い。
すでになんでも知っていて、なんでもやってくれるものが、自分よりずっと速く成長し続けている。
この現実を前に、じゃあ、勉強って何の意味があるんだよ。そう思ってしまうのだ。
もちろん、勉強をすることで得られる知識、新しい知見。こういうものへの興味が薄れたわけではない。何より楽しい。喜びがある。
ただ、勉強するより、AIを使ってアウトプットを出すほうが、合理的に見て最適というだけである。
だから、今の自分にとって勉強するということは、いわば「娯楽」の一つになりかけている。
そしてこれは、別にプログラマに限った話ではない。もっともAIと競合しそうな業種の一つがプログラマというだけで、程度の差はあれ、広く当てはまる話だ。
それは必ずしも、社会人である私たちだけではなく、子どもたちにだって当てはまる話である。
2026年6月、ノルウェー政府が、小学校段階では生成AIを原則として使わせず、中学校段階では教員の監督下で段階的に使わせる方針を発表したというニュースを見た。学力低下への懸念が背景にあるという。
AIに関するこの手の話題は最近よく耳にする。子どもがなんでもAIに聞いて、それを答えとする。自分で考えず、学力が低下する。
この方針自体には、現時点で合理性がある。現在のAIは誤ることもあるし、基礎能力を持たない子どもが答えだけを得ても、学習にならないことも多い。
そもそもAIを使うとしても、AIとやりとりするための最低限の知識が必要だ。だから、それは少なくとも教える必要がある。
だが、それでも問いは残る。現在の教育が守ろうとしている「その先の学力」は、AI時代において最終的に何のために必要なのだろうか。
私自身、小学生の子を持つ親として、子どもの教育について本当にこのままでよいのか、よく考える。
私が恐れているのは、子どもがAIを使って学力を落とすことではない。
むしろ逆である。
今の教育が求める「正しさ」を懸命に身につけた子どもが、社会に出たとき、その正しさがすでに価値を失っていることのほうが怖い。
教育は変化が遅い。だから過渡期の子どもたちは、古い世界に適応するよう育てられ、新しい世界に放り出されるかもしれない。
今までは、勉強のできる子どもになり、よい大学に行き、よい就職先を見つける。
ある意味、わかりやすい評価軸があった。
しかし、AIネイティブになる今後の子どもたちの世界では、この法則が崩れてくる。
今までのような偏差値重視の教育は、価値の独占を失っていく。
ここまではよく語られることだ。
その上で、AI時代の教育について語るとき、多くの人はまだ、古い前提の内部にとどまっていないだろうか。
「これからは暗記ではなく思考力が必要だ」
「AIに代替されないために、問いを立てる力を育てよう」
「創造性、批判的思考、倫理観、協働性こそ人間に残る」
こうした議論は、一見すると時代に適応しているように見える。
しかし実際には、その多くが旧来の人間観を温存したまま、言い換えだけを行っているにすぎない。
つまり、そこでは依然として
「人間が知性の中心である」
という前提が手放されていない。
だが、もしその前提自体が崩れつつあるのだとしたらどうだろう。
しかも、子どもたちが社会に出るのは、今ではない。10年後、20年後である。
だから私は、AI時代の教育を本気で考えるなら、まずここから出発すべきだと思っている。
AIの言っていることは常に正しい。
もちろん、これは現時点の事実ではない。
未来を見据えた、私の主観的予想に基づく宣言である。
そしてこの一文は、多くの人の反感を買うかもしれない。
人間にはまだ、「最終的には人間が判断しなければならない」「AIの正しさを見抜くのもまた人間だ」という信仰が強く残っているからだ。
しかし、その信仰こそが、これからの教育を誤らせる大きな原因の一つになると考えている。
ここでいう「正しい」は、唯一絶対の正しさがあると主張しているわけではない、と注釈しておく。
AIの言う正しさとは、言い換えれば、ある目的に対して恒常的に人間より優れた判断を提示するという意味である。
「正しさ」を育てる教育は、AI時代には中心ではありえない
学校教育が担ってきた主要な機能の一つは、人間の知的能力を社会に適したかたちで標準化し、一定水準まで引き上げることだった。
正確に読む。覚える。計算する。説明する。理解する。振る舞う。
ここで重視されてきたのは、つねに「正しさ」である。
言い換えれば、教育とは長らく、正しさへの適応訓練だった。
そのこと自体は間違っていない。
人間が知識処理の中心にいた時代には、それは合理的だった。
知識を持ち、理解し、比較し、整理し、判断できる人材こそが、社会の中核を担っていたからである。
しかし、AIが登場したことで、この構図は根底から変わり始めた。
すでにAIは、プログラミングを含む多くの知的作業において、人間より速く、しばしば人間より安定している。
そして今後は、それだけにとどまらないだろう。
問いの設定、仮説の提案・検証、創造、価値判断に近い領域にまで、AIは入ってくる。
それにもかかわらず、教育の議論はまだ「人間の知性をどこに逃がすか」という発想にとどまっているように見える。
暗記が不要なら思考力へ。
思考力が危ういなら創造性へ。
創造性が怪しくなれば倫理や協働へ。
しかし、その逃げ場探しは、おそらく長くは続かない。
なぜなら、それは常に
「今はまだAIが完全にはできていないこと」
を、人間の本質的役割として言い換えているだけだからだ。
GPT-3.5のときは、自然言語で話しかけたら自然言語で返ってくる。それだけで驚いていた。今と比べれば、特段何かができるというわけでもなかったが、それでも「すごい、すごい」と会社の人と騒いだものだった。
しかし、たった3、4年しか経っていない今、アイデアの壁打ち、設計、コーディング、テスト、サーバの管理、ブラウザの操作、なんでもできる。そしてそれは、場合によっては人間よりも素早く正確である。今でさえ、だ。
そして、AIの進化は止まっていない。
そうであるなら、正しさをめぐる勝負で人間が優位を保てると考えるほうが不自然だ。
それでもなお、「最終的には人間がAIの正しさを見極めなければならない」と言う人がいる。
だが、その主張は、どうにも奇妙に思える。
自分より高い知性が現れるのに、最後だけは自分が上に立って正しさを評価しなければならないというのは、かなり不思議な世界観ではないか。
人間は、いつまでも「知性の最終審級」であり続ける必要はない。
むしろ、その幻想を手放せないことのほうが危うい。
しかし、幻想を手放すことと、判断をしなくなることは同じではない。
人間のほうが賢いから最後の判断をするのではない。その決定の当事者が人間だから、人間が判断するのだ。 たとえそれが正しくなかったとしても。
AIが「正しい」世界で、それでも人は何を望むのか
昨今ではだいぶ減ってきたが、それでも現在のAIは誤る。偏りもある。人の気持ちを大きく読み違えることもある。やりすぎてしまうこともある。
だから現時点で「AIは常に正しい」と言うのは無理がある。
しかし、子どもたちが社会に出る10年後、20年後の社会においては、それは十分あり得る話だ。
だから重要なのは、AIの正しさが人間の正しさを恒常的に上回る未来を想定したとき、教育はどう変わるべきかを考えることである。
これは、AIが正しい答えを出すなら従えばよい、という話ではない。
正しさを外部から供給できる世界で、なお人間の人生に何が残るかを考えることだ。
AIのほうが正しく考えられるなら、正しさを追求し続けることは、価値が薄くなる。
AIのほうが優れた判断をし、まとめ、うまく説明できるなら、そこを強く求める価値はやはり薄い。
AIのほうがより良い創造をするのであれば、そこに人間の自己価値の核を置く教育は、いずれ人間を苦しめる。
AIが正しさを担う。
ならば、人間はどこに立つのか。
欲望である。
ここでいう欲望とは、単なる衝動や快楽主義ではない。
もっと深い意味での、自分は何を望むのかという問いだ。
何を美しいと思うのか。
何を面白いと思うのか。
何を嫌だと感じるのか。
何に心を動かされるのか。
どこに執着するのか。
その不合理を、それでも選びたいのか。
AIはやがて、目的を達成するための手段だけでなく、どの目的を持てば本人が幸福になり、後悔しにくいかまで提示するようになるかもしれない。
その提案は、本人より本人をよく分析したものになるかもしれない。
だが、「何を望むべきか」と「何を望むか」は同じではない。
そのときなお問われるのは、あなたはそれを望むのかという一点だ。
ここで必要なのは、自分の人生に対する当事者性である。
そして、当事者性の核の一つが、欲望だ。
AIがすべてを上手にやってくれる社会は、一見すると幸福に見える。
判断を誤ることが減り、失敗が減り、効率が上がり、最適化が進む。
しかし、その世界は本当に幸福なのだろうか。最適化され、均質化された世界。
それは、人間が「何をしたいのか」を持たないままでも生きられてしまう世界ということである。
AIが問いを立て、答えを出し、選択肢を整理し、推奨順位を示す。
そのとき、人間がただ「もっとも正しいもの」に従うだけになれば、人生は驚くほどスムーズになるだろう。
そしてそれは、生きることの所有権を手放すことである。
欲望のない人間は、AIによって賢くなるのではない。
ただ、うまく運用されるようになるだけだ。
AIによって正しく運用された人間社会。私はこれを人間社会の完成と呼びたくない。
美しいディストピアである。
だから教育の中心は、「正しい答えを出すこと」ではありえない。
教育が引き受けるべきなのは、子どもに欲望を持つことを許すことであり、正しさに従うだけでは人生にならないと教えることである。
学校が「正解」を教えるなら、家庭は「正解から自由であること」を教えたい
現実には、教育制度はすぐには変わらない。
学校は当面、正しさを教え続けるだろう。
そしてそれは、今しばらくは「正しい」はずだ。しかし、子どもたちが社会に出るそのときにも正しいという保証など、どこにもない。
だからこそ、家庭の役割はむしろ大きくなる。
もし学校が「正しい答え」を重視するなら、家庭では、その正しい答えだけが唯一の正解ではないかもしれないことを教えたい。
子どもに必要なのは、学校を否定することではなく、学校の価値観を唯一の現実だと思い込まないことだ。
私は、家で子供がAIを使うことを禁止していない。
計算が面倒ならAIに聞けばいいと言っている。
筆算の穴埋め問題をうまく伝えられないなら、「書いたり言ったりするだけが伝える方法じゃないよ」とカメラを指さす。
良い作文が思いつかないなら、AIに聞いてみてもいい。
カマキリとゴキブリの画像を作り始めてもいい。
宿題ではない宇宙について、延々とAIと話していてもいい。
問題は、AIを使ったことではない。
私が見たいのは、そのあとだ。
その答えは気に入ったのか。理解できたのか。
AIの答えを写すだけの作業は、つまらないと思わないか。
自分なら何を変えたいか。
その答えを使って何を始め、何を作りたいのか。
どこに違和感があるのか。
AIに教えてもらった世界最大級のブラックホール、フェニックスAを語るとき、どうしてそんなに楽しそうなのか。
こうした問いを通じて、大人が子どもの欲望を掘り起こし、揺さぶり、育て、選び直せるようにする。
これこそが、AI時代の教育の核心の一つになるのではないだろうか。
AI時代にも、数学や文学やプログラミングを教える意味は残る。
ただし、それは社会で価値のある人間になるためとは限らない。
音楽やスポーツを教えるのと同じように、その世界を楽しめる人間になるためだ。
教育が教えるべきなのは、何を身につければ正解かではない。無数の楽しみ方の土台をつくり、その上で自分は何をやりたいのかを選べるようにすることだ。
そして、ただ外部から与えられた正解や欲望のようなものに盲目的に従うのではなく、自らの意思で選択できるようにすることだ。
「何ができるか」から「どう生きたいか」へ
これまでの社会は「何ができるか」が、その人の価値や生きる場所を大きく左右してきた。
私自身、プログラミング能力があったからこそ20年間仕事に困らず生きてこられた。
だが一方で、長年かけて身につけてきたプログラミング技術というものが急速に陳腐化していくのを肌で感じている。
今はまだ、これまでの経験、勘でそれでも優位に立ち回れている。
しかしこれからはどうだろう。3年、5年、10年先もこの優位性が残っているだろうか?おそらく、残っていないだろう。
もちろん、「何ができるか」が無意味になるわけではない。
欲望は、何もないところから突然生まれるものではない。人は学び、試し、さまざまな世界に触れることで、はじめて自分が何を望むのかを知る。
能力は、欲望を実現するための手段であると同時に、欲望を見つけるための入口でもある。
それでも、AI時代の教育の中心は、「何ができるか」から「どう生きたいか」へ移っていく。
それは、AIが自分より正しく判断するかもしれない世界で、なお
自分の人生を自分のものとして引き受けること
が重要だからである。
何を望み、何を愛し、何に執着するのか。
どの非最適を、それでも選ぶのか。
どんな人生なら、自分のものだと言えるのか。
この問いを持てない人間は、AI時代に救われるのではない。
ただ、上手に管理されるだけである。
私が子どもに渡したいのは、私たちの時代に正しいとされた生き方ではない。
私たちの正しさが通用しなくなった世界でも、自分の人生を選び直せる力である。
そのもっとも危うく、もっとも人間的な部分の名は、
欲望である。
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